LOGIN炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。
イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊した体を叱咤し、気力でイーシュが木材をどけていくと、下敷きになっていた五歳ほどの幼い少年が姿を現した。確か、雑貨屋の息子で、名をルトといったはずだった。 イーシュはルトの腕を掴んで建物の下から引っ張り出した。すると、その直後、イーシュが木材をどけたことで支えを失った瓦礫が雪崩れ落ちてきた。イーシュはルトの小さな身体を間一髪のところでまだ火の手が及んでいない方へと突き飛ばす。それと同時にイーシュの体の上に瓦礫が降り注いだ。 逃げ遅れ、瓦礫の下敷きとなったイーシュを炎の波が包む。瞬く間にコートの裾へと炎が燃え移ってきていた。 イーシュはげほげほと激しく咳き込む。火傷を負った手のひらにわずかな量の赤い飛沫が散った。リスルの前では、どうしても格好をつけたくて、強がっていたが、いい加減身体が限界だった。走って逃げようにも、身体がに力が入らず、自分の上に重くのしかかる瓦礫の山をどけようにもびくともしない。もう、ここから逃げることはできそうになかった。 ただ、リスルの元へ戻りたかった。彼女が自分のことを呼ぶあの声が聞きたいと思った。弟扱いには不満を感じないではないが、あの綺麗な優しい目でもう一度自分のことを見てほしいと思った。 でも、もうそれももう叶わないかもしれないとイーシュは思った。けれど、こんな自分でも、最後にほんの少しくらいは誰かの役に立てたのなら、これも悪くないと思った。イーシュが好きなあの人なら、きっと自分の身に危険が及ぼうとも、こうしたに違いなかった。 イーシュの身体を業火が焼いていく。たんぱく質の焼ける匂いがした。無数に負った火傷のせいで全身が痛いのか熱いのかもうわからなかった。 リスルさんに会いたい、そう思ったのがイーシュの最後の記憶になった。若い女の声に名前を呼ばれ、リスルは意識を取り戻した。リスルは自分の身体を揺すっていたシスター服に身を包んだ黒髪の女の姿を認め、掠れた声でその名を呼んだ。
「……シスター・アイリス」 「レイモン神父がお呼びです。動けますか?」 ええ、と頷くと、リスルはアイリスの手を借りて、冷たい床に敷かれた敷物から身を起こす。どうやら怪我人たちと一緒に寝かせられていたらしいとリスルは理解した。 立ち上がろうとすると、膝ががくりとなり、上体が泳いだ。さっとアイリスが手を差し伸べ、リスルの体を支える。どうやらもう、自力で立ち上がるだけの体力も残ってはいないようだとリスルは悟る。 ゼエンに対して、《レーヴェン・スルス》の力を行使したにも関わらず、命を落とさなかったことが奇跡に近い。もうほとんど自力で動くことすらままならないといえ、ぎりぎりのところでまだリスルは持ち堪えていた。 アイリスの肩を借りながら、リスルは石段を登っていく。 石段を上り終え、礼拝堂の隅へと出ると、側廊を通り、リスルは外へ出た。 夜が明けていた。朱と金のグラデーションが東の空を染めていた。 猛火に焼かれた地面はまだ熱さを残していたが、ところどころで小さな煙が上っている以外、炎は全て消し止められていた。炭になった建物の黒い残骸があちらこちらに点在していて、村は廃墟のようだった。 「……シスター・リスル」 躊躇いがちに男の声がリスルの名を呼んだ。 「レイモン神父」 煤と泥で黒く汚れ、あちこち焼け焦げた法衣を纏った壮年の男がそこにいた。 「シスター・リスル。村長を助けていただき、ありがとうございました。それで……あの、イーシュ君なのですが……」 言いにくそうに言葉尻を濁し、レイモンは目を伏せる。リスルは胸がざわつくのを感じた。嫌な予感が膨らんでいく。彼女はレイモンをきつい口調で問いただす。 「イーシュが……イーシュがどうしたっていうんですか、レイモン神父。答えてください!」 「イーシュ君は……あちらです。あちらにいます」 リスルはレイモン神父に示された方へと視線を向け、網膜に映った事実に息を呑んだ。視線の先で真っ黒に焼け焦げた小柄な人影が地面に横たわっていた。その顔には申し訳程度に布が掛けられている。 「詳しいことはわかりませんが、崩れた建物の下敷きになっていた子供を助け、イーシュ君自身は逃げ遅れたようです」 「イーシュ……! 何で……!」 リスルは身体を支えていたアイリスの腕を振り払い、イーシュの元へ行こうとする。しかし、リスルの足にはもう彼女の体重を支える力はなく、彼女は顔から突っ込むように地面へと倒れる。彼女は力の入らない腕を懸命に動かし、横たわるイーシュの元へと這っていく。 リスルは動かないイーシュの体を抱きしめると、その胸へと縋り付く。彼の体の深部まで達していそうな全身のひどい火傷に、リスルの目から涙が溢れた。そのとき、リスルは自分の耳元でどくりという脈動の音を確かに聞いた。とても弱くて小さい音だけれど、イーシュの心臓はまだ鼓動を刻んでいた。 「生きてる……! まだ、生きてるわ!」 リスルは自身の汚れた上着の肩口で乱暴に涙を拭うと、顔を上げる。ほんのりと縁が赤くなった目を閉じ、彼女は目の前の深く傷ついた少年を救いたいと強く願う。 リスルは心の中で眩い光を思う。イーシュを死の闇の中から引き戻すための朝の光だ。柔らかく美しい金色に照らされたこの世界で彼に今日という日の朝を迎えて欲しかった。 リスルの手に朝日と同じ色の光が柔らかく絡みつく。彼女の髪は淡い黄赤へと変化していた。 イーシュの体を金色の光が覆った。少しずつ傷が癒えていき、体表に滑らかな肌色が戻り始める。しかし、イーシュの意識は戻らない。 リスルは明け方の空を染める朱色の双眸を開く。イーシュの体を包む光が眩さを増す。 リスルは自分の体の機能が失われていくのを感じた。目の焦点が合わず、視界を闇が侵食していく。体が末端から動かなくなっていき、死の冷たさが指先から全身へと広がっていく。 今度こそ死ぬのだな、とリスルは思った。湖畔の風車小屋を出たときから、何となく今日が自分にとって最期の日になるのではないかと予感はしていた。けれど、最期にイーシュを救い、生涯を終えることができるのなら、構わないと思った。 イーシュには恨まれるかもしれないとは思う。けれど、リスルは彼に生きてほしかった。そのためなら、自分にほんの僅かに残った命の力を全て、彼の中へ注いでしまおうと思えた。 リスルの心臓が最後の鼓動を刻み、沈黙した。イーシュを包む光が薄れていき、冬の冷たい朝の空気の中へ消えていった。同時にリスルの髪と瞳も元の色を取り戻していく。 リスルは遠くなる意識の中で、自分の名前を呼ぶイーシュの声を聞いた。 (イーシュ……よかった……) そう思ったのを最後にリスルの意識は死の闇の中へと飲み込まれていった。 彼女はもう動くことはなく、数多の命を救った奇跡の軌跡はここで途絶えた。頬に冷たい風を感じた。瞼の裏側で眩しい朝の光の存在を感じ、イーシュはゆっくりと目を開く。
胸の上に重さを感じた。ぼんやりとしていた視界の焦点が次第に合っていき、イーシュはその正体を知った。 「リスルさん……?」 イーシュの体を抱きしめ、彼の胸に頬を寄せるようにして、リスルが眠っていた。安らかでどこか満足げな寝顔だった。 ゆっくりと体を起こしながら、そもそも自分はどうしてここにいるのかと、イーシュは訝しげに記憶を探る。救助活動中に生き埋めになっていた子供を《アイゼン・メテオール》の力を使って助け出した後、雪崩れ落ちてきた瓦礫の下敷きとなって身動きが取れなくなり、イーシュ自身は逃げ遅れたはずだった。しかし、身に纏った服こそ真っ黒に焼け焦げているが、体にはわずかな火傷一つない。喉や目が熱や煙にやられて痛むということもなく、不自然だった。 イーシュはリスルが息をしていないことに気づいた。そっと体に触れると、彼を抱きしめるリスルの腕は、熱を失い、ひどく強張っていた。 「何で……」 イーシュは呆然として呟いた。イーシュが意識を取り戻したことに気づいたレイモンは彼に近づくと、静かに首を横に振った。 「あなたは全身に大火傷を負い、瀕死の状態でした。シスター・リスルは、自らの命と引き換えにあなたの命を救うことを選び、その生を終えたのです」 「リスルさん……何でそんなこと……」 リスルは本当に馬鹿だとイーシュは思った。喉の奥から嗚咽が漏れる。 イーシュはこんなことは望んではいなかった。リスルが死ぬくらいなら、自分のことなんて見捨ててしまってほしかった。恨み言と一緒に涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。 レイモンは膝を折って、イーシュと目線を合わせ、 「……あなたたちがロイゼン山に向かう前に顔を合わせたときには、きっと彼女は既に自分の死を覚悟していたのでしょう。虫の知らせとでもいうのでしょうか。 そして、彼女はどのみち自分の死期が近いことを知っていたからこそ、その分あなたが生きることを望んだのでしょう。イーシュ君にとっては迷惑かもしれませんが、彼女はきっと、まだ若く、先のあるあなたに希望を見ていたのだと思います。 どうか、ただ一つ覚えていてください。彼女はあなたを大切に思っていて、幸せに生きてほしいと最後まで願っていたことを」 イーシュは泣きながら頷いた。 イーシュだって、彼女のことが大切だった。強くて、優しくて、格好良くて、美しい彼女のことが好きだった。だからこそ、彼女に憧れもしたし、ほのかな感情を抱きもした。まだ彼女に何も伝えられていないし、返すこともできていなかった。 イーシュはもう動かない彼女の体を抱きしめて、泣き続けた。 夜は完全に明け、淡い青へと色を変え始めた空に朝の光が白く降り注いでいた。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?







